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生活、地元、小旅行

山城の陽が注ぐところ

 

京都府城陽市は、京都からも奈良からもちょうど5里の距離にあり、古くから五里五里の里と呼ばれていたエリアである。この前の土曜、そこに行ってきた。

 

JR奈良線で京都から出発してしばらく、列車が宇治市に入ったあたりから建物の間に茶畑が見えるようになってくる。宇治をはじめとして、山城地域の南のほうはお茶の栽培が有名で、城陽もまた茶の産業が盛んである。宇治を通過してさらに数駅で城陽に到着する。

 

日曜日に終わってしまったが、城陽市歴史民俗資料館では秋季特別展示「城陽のお茶」展をやっていた。

 

室町時代から続く城陽市域での茶栽培に関する史料が展示されていた。特に面白かったのが山城国近江国の茶産地を相撲の番付にした江戸時代の「城近銘茶製所鑑」で、たとえば東西の大関には宇治(現宇治市)と湯谷(現宇治田原町)が選ばれている。これは京都府和束町のホームページで、コピーしたものと現在の市町村別に(山城国の)地名を整理したものを見ることもできる。

http://www.town.wazuka.lg.jp/html/bunka/greentea/timeline/pdf/timeline_pdf01.pdf

http://www.town.wazuka.lg.jp/html/bunka/greentea/timeline/pdf/timeline_pdf02.pdf

 

常設展示室は市の歴史や市域西部を流れる木津川を取り上げている。城陽市を含む一帯は歴史の教科書でよく知られる山城国一揆の舞台になったことから、当時の史料も展示されている。

 

秋季特別展示「城陽のお茶」は終わってしまったが、来年1月20日からは冬季特別展示「ちょっと昔の暮らしと風景ー城陽町だった頃ー」がスタートする。1951年に久津川村、寺田村、富野荘村、青谷村が合併し城陽'町'が誕生してから、1972年に城陽市となるまでの期間を取り上げると考えられる。詳しい情報は資料館の公式ホームページで。

 

さあ、今回メインの目的地、木津川沿いに広がる茶畑の風景を見に行こう。

 

レンタサイクルで近鉄寺田駅から西へ西へ。城陽インターチェンジに繋がる国道を渡れば、建物が多かった周辺の景色が広々とした畑の状景へと変わってくる。

 

その果て、堤防へと登るやや急な坂を一気に上ると、突如として木津川の広大な流れの眺望が現れた!

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この木津川こそ、過去の氾濫の繰り返しによって城陽市の茶畑に肥沃な水はけの良い泥を供給してきた川である。そんな暴れ川も、長く大雨が降っていない冬の日には、ただただ穏やかに流れていた。

 

そして、ちょっとだけ北に行くと、圧巻、川沿いに茶畑の連続が見えてくる。この日は曇りの予報で、実際午前までは曇っていたが、ちょうど陽が差してきた。茶畑と木津川堤防がその陽に照らされる。

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まさしく地名の指す通りだと思った。城陽という地名はとても新しく、1951年に町の誕生とともに、山城国の陽の当たる豊かな土地という意味を込めて名付けられた。その意味も響きも素敵な地名だと思う。京都府には千年前から存在する歴史ある地名がたくさんあるけれど、今度はこの地名が千年後に残っていてほしいと思ってしまう。

 

後ろを向けば、今レンタサイクルで走ってきた城陽の街が、東端まで一望できる。こっち側にも茶畑がある。

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木津川と堤防の間にある茶畑で栽培される茶は浜茶と呼ばれ、抹茶の原料(てん茶)になる。しかもそれはかなり品質の良いものらしく、今年の全国茶品評会で城陽市はてん茶部門の生産地賞を獲得し、日本一に輝いた。(http://www.j-shinpo.co.jp/2017/11/23/3-431/)

 

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もっと木津川堤防を北へ、久御山町との境まで行けば、木津川の氾濫のときに「わざと」流されるように造られている有名な上津屋橋があるが、少し遠いのでまた今度。

 

(おまけ)最初に城陽駅近くの正道官衙遺跡にも立ち寄った。ここは奈良時代の役所の跡があり、建物の柱が復元されているとともに、近隣の人たちの公園にもなっているようだ。入り口のところには何本か種類の違う木が植えられていて、それぞれを題材とした和歌がついている。そのなかでマツは次のようなものだった。

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   磐代の 濱松が枝を 引き結び 眞幸くあれば また還り見む  有間皇子(万葉集)

 

磐代(いわしろ)? 「濱」の松だから海の近く? もしかして……

 

家に帰ってから調べると、やはりそうだった。「磐代」=「岩代」は和歌山県みなべ町にある地名だ。電車で通ると、とても眺めの良い砂浜の海岸がずっと続くのを見ることができる。

 

この歌の意味は例えば http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/arima2.html に書いているが、有間皇子が謀反を唆された相手に裏切られ、取り調べに呼び出されたときの道中、岩代で無事に帰れることを祈った歌だ。

 

岩代という地名が万葉の時代から存在し、しかも歌に詠まれていることにも驚いたが、和歌山県から遠く離れた(2つ隣の都道府県だけど)京都府城陽のこんな遺跡でこの地名を見ることになるとは。

 

ちなみに城陽市の青谷では岩代があるみなべ町と同じく梅の栽培が盛んで、梅林がきれいだそうだ。さらに、青谷は京都府京田辺市に隣接しているが、みなべ町和歌山県田辺市の隣である。合併前の岩代村は田辺町とはかなり他の村を隔てていたから、これは完全に偶然でしかないのだが、城陽市みなべ町の接点が次々と見つかったのはちょっと不思議に思える。