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生活、地元、小旅行

天気予報のピュアリティー

昨日は2限からのスタートで、朝食後は家を出るまで時間があった。テレビを一応点けながらも、集中力を手元の本とインターネットサイマル放送のラジオ音声に向けていた。

 

宇治市コミュニティFM局の放送、番組の途中で流れてきたのは宇治川水系の河川やダムの水位情報だった。大雨が降ったりしたわけでもなく、淡々と伝えられる宇治川の水位。それを聴きながら、長く忘れていた安心感のようなものを明確に思い出した。

 

幼稚園から小学校のころ、ウェザーニュースというテレビで24時間延々と天気予報を流しているチャンネルがあり、それがとても好きだった。1時間に1回はスタジオからの生放送があったが、それ以外は穏やかなBGMが流れ、各地の天気や降水確率、観測された日照時間、風向風速、積雪の深さ、天気図などが周期的に画面に映し出されていく。あれは非常によかった。

 

気象に興味があったからあれをずっと見ていたのか、あれを見ていたから気象に興味が湧いたのかは忘れたが、天気予報が子どもとしての自分の「好きなもの」の一つだったことは明らかだ。

 

当時なぜウェザーニュースの放送が好きだったのかもよく覚えていない(というよりは、当時は4〜6歳だったし、その理由を明確に言語化していなかったのは当然で、したがって覚えているわけがないと思う)。ただ、あの放送だけではなく、ラジオの交通情報みたいな——それこそ川やダムの水位を伝える放送のような——生活に必要な情報を、過剰なく淡々と伝える放送全般に良さを感じていたのは覚えている。昨日、川の水位を聴きながら、そういう放送は汚れがなく、純粋で、テレビ/ラジオ放送のもっとも本質的なところなのだろうと思った。たぶん幼少時の自分も、そういうところに惹かれていたのだろうと推察される。そして、そのような放送のうち最もポピュラーなものが天気予報だ。

 

時は流れ、2016年9月にウェザーニュースはテレビ放送の業務を終了した。今やインターネットが完全に普及し、天気などネットで簡単に見られるという人が増え、テレビの天気予報専門チャンネルの役目は終わったということか。しかし、テレビもネットも、ひたすらゴシップを消費する近年の様相である。テレビは各局同じような内容のワイドショーに多くの時間を割き、ネットは匿名性を盾に特定の個人を吊るして燃え上がらせ、私刑に処する。また、後者はインターネット文化に疎遠な人々は遅れた文明にいるとみなし、自らの優位性を見せつけようと動く。テレビも、台風が各地で被害を出しまくっているというのに、各社自前の、ワイドショーの延長のような選挙特番を中断して緊急の放送を行ったりはしない(もちろん良識のあるテレビもネットも存在するのではあるが)。 正直に言うと、テレビやネットのそういうところとできるだけ関わりを持ちたくない。こういったメディアが主流であるなかで、24時間延々と天気予報を流しているあの局がいなくなったのは悔やまれる。あのような過剰のない、限りなくピュアな情報源たちは、もうこれからは失われていくのだろうか……

 

ただ、コミュニティFMラジオ局のように、今でもそういった放送をしてくれるメディアがあることはありがたいことだ。どうか、こういうものがこの後も生き続けてほしい。

 

今日の朝はNHKの「おはよう日本」を観て学校に行った。この番組はテレビ放送にしては、かなり自分が求めるものに近いと思う。天気予報によれば、今日の夜は京都府南部でも雪が降る可能性があるらしい。和歌山県南部ではほとんど雪は降らなかったこともあり、少しワクワクする。やはり幼少時に培われた気象への興味が今も強く残っているのかもしれない。