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生活、地元、小旅行

2017年の終わりに

12月になってからとても調子が良くなった気がする。体調の面でも精神の面でも。クリスマスの翌日などは、紀南では滅多にないほどの雪が降るのを見たし、山が真っ白になっているのがとてもきれいだった。雪が降ると大学から人が減り、それもよかった。それにひきかえ、京都で過ごす初めての夏(まあ8月から9月までは和歌山県に帰省していたが)は本当に酷だった。高湿高温の空気の塊が流れもなく淀んでいるような5月からの蒸し暑さ、毎日のように降るゲリラ豪雨、眠れない熱帯夜、それ以外にも、自分の体力と精神を削るには十分すぎるものをたくさん抱えた気候だった。より極端な気候の場所に住んだことで、自分は暑いのがダメで寒いのは割と大丈夫だということがはっきりしてきたようだ。

その12月もあと3日で終わり、2017年も終わる。今年はいつもより長く感じた。4月までは一日一日の密度がとても大きかったから長く感じたし、それからはその反動で、密度の軽い日々が過ぎるのがとても遅く感じた。

 

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そして年の節目を実家で迎えるために、和歌山県に帰ってきたのが昨日。

こっちに向かう特急くろしおが、周参見駅に止まったあと串本駅に向かうときのことだった。

特急は無人駅の田並駅を通過する。日も沈み辺りは暗いなか、駅舎とホームは明るく、はっきりと様子がわかった。駅舎の水色の壁面に、水泡を表現する銀色の鏡が見える。これは2014年、紀南地方の各駅舎にアートを展示する「きのくにトレイナート」で製作された「真珠貝の彼方」という駅舎アートらしい。
http://trainart.jp/2014/map12

(以下 上のページ[2017,12,29閲覧]から引用)田並の人々は、かつて遠い異国に移民として渡り、真珠貝を採り新しい文化をまちにもたらしました。 その真珠貝を採るダイバーたちが漏らす息を作品に表現。田並の過去と未来を映し出す作品が駅舎の空間に生まれます。

田並駅は小さな無人駅で、言ってみれば遠くの人にとっては名も無き駅ということになるだろう。和歌山県以外の人では、田並という地名を知る人はそう多くはいないのではないかと思われる。しかし、この駅舎を見れば、そこにも昔から人が生活を送り歴史を重ねてきたことを知ることができる。自明だけれど、悟るのが難しいことだと思う。


2017年はこれまでになく、近い場所も遠い場所も、ひとつひとつの地名にいとしさを感じた年だった。そしてこれまでよりも実際にいろんな土地に行った1年だった。至るところに、数は減っているとしても人が生活していて、あらゆる固有の自然と歴史と文化があることを、今までで一番感じた年だった。

 

そのことは人の往来が容易になって、電車でいろんな場所に行けたからこそ気づいたことなのだが、一方で、そのことがとても軽視されているようにも思える。高速で車や列車が通り過ぎる場所にも何かがある。何日もかけて徒歩や馬で移動していた時代に書かれた文章には、現在からすると細かい地名が残っていて驚くことがある。自分は今年、故郷やほかの人の田舎や現在進行形で発展している土地に「何もない」と言うことをやめた。

 

もちろん、発展した交通で地球上のあらゆるところに短時間で行けるようになったことは歓迎したい。ただ、それがゆえに「通り過ぎられる」土地が持つ重みに無関心な人が多くなってしまうとしたら悲しく、もったいないことのような気がする。

 

2017年の終わりに、こういうことを思った。

 

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来年は大学でどの分野に進むかがかなり固まってくると思うし、学業と日々の生活を大切にして、たまにはどこかを訪れたり地元に帰ったりするような年になるといいなあ。今年とほぼ同じだけれど、もっとよくなったら。

山城の陽が注ぐところ

 

京都府城陽市は、京都からも奈良からもちょうど5里の距離にあり、古くから五里五里の里と呼ばれていたエリアである。この前の土曜、そこに行ってきた。

 

JR奈良線で京都から出発してしばらく、列車が宇治市に入ったあたりから建物の間に茶畑が見えるようになってくる。宇治をはじめとして、山城地域の南のほうはお茶の栽培が有名で、城陽もまた茶の産業が盛んである。宇治を通過してさらに数駅で城陽に到着する。

 

日曜日に終わってしまったが、城陽市歴史民俗資料館では秋季特別展示「城陽のお茶」展をやっていた。

 

室町時代から続く城陽市域での茶栽培に関する史料が展示されていた。特に面白かったのが山城国近江国の茶産地を相撲の番付にした江戸時代の「城近銘茶製所鑑」で、たとえば東西の大関には宇治(現宇治市)と湯谷(現宇治田原町)が選ばれている。これは京都府和束町のホームページで、コピーしたものと現在の市町村別に(山城国の)地名を整理したものを見ることもできる。

http://www.town.wazuka.lg.jp/html/bunka/greentea/timeline/pdf/timeline_pdf01.pdf

http://www.town.wazuka.lg.jp/html/bunka/greentea/timeline/pdf/timeline_pdf02.pdf

 

常設展示室は市の歴史や市域西部を流れる木津川を取り上げている。城陽市を含む一帯は歴史の教科書でよく知られる山城国一揆の舞台になったことから、当時の史料も展示されている。

 

秋季特別展示「城陽のお茶」は終わってしまったが、来年1月20日からは冬季特別展示「ちょっと昔の暮らしと風景ー城陽町だった頃ー」がスタートする。1951年に久津川村、寺田村、富野荘村、青谷村が合併し城陽'町'が誕生してから、1972年に城陽市となるまでの期間を取り上げると考えられる。詳しい情報は資料館の公式ホームページで。

 

さあ、今回メインの目的地、木津川沿いに広がる茶畑の風景を見に行こう。

 

レンタサイクルで近鉄寺田駅から西へ西へ。城陽インターチェンジに繋がる国道を渡れば、建物が多かった周辺の景色が広々とした畑の状景へと変わってくる。

 

その果て、堤防へと登るやや急な坂を一気に上ると、突如として木津川の広大な流れの眺望が現れた!

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この木津川こそ、過去の氾濫の繰り返しによって城陽市の茶畑に肥沃な水はけの良い泥を供給してきた川である。そんな暴れ川も、長く大雨が降っていない冬の日には、ただただ穏やかに流れていた。

 

そして、ちょっとだけ北に行くと、圧巻、川沿いに茶畑の連続が見えてくる。この日は曇りの予報で、実際午前までは曇っていたが、ちょうど陽が差してきた。茶畑と木津川堤防がその陽に照らされる。

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まさしく地名の指す通りだと思った。城陽という地名はとても新しく、1951年に町の誕生とともに、山城国の陽の当たる豊かな土地という意味を込めて名付けられた。その意味も響きも素敵な地名だと思う。京都府には千年前から存在する歴史ある地名がたくさんあるけれど、今度はこの地名が千年後に残っていてほしいと思ってしまう。

 

後ろを向けば、今レンタサイクルで走ってきた城陽の街が、東端まで一望できる。こっち側にも茶畑がある。

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木津川と堤防の間にある茶畑で栽培される茶は浜茶と呼ばれ、抹茶の原料(てん茶)になる。しかもそれはかなり品質の良いものらしく、今年の全国茶品評会で城陽市はてん茶部門の生産地賞を獲得し、日本一に輝いた。(http://www.j-shinpo.co.jp/2017/11/23/3-431/)

 

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もっと木津川堤防を北へ、久御山町との境まで行けば、木津川の氾濫のときに「わざと」流されるように造られている有名な上津屋橋があるが、少し遠いのでまた今度。

 

(おまけ)最初に城陽駅近くの正道官衙遺跡にも立ち寄った。ここは奈良時代の役所の跡があり、建物の柱が復元されているとともに、近隣の人たちの公園にもなっているようだ。入り口のところには何本か種類の違う木が植えられていて、それぞれを題材とした和歌がついている。そのなかでマツは次のようなものだった。

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   磐代の 濱松が枝を 引き結び 眞幸くあれば また還り見む  有間皇子(万葉集)

 

磐代(いわしろ)? 「濱」の松だから海の近く? もしかして……

 

家に帰ってから調べると、やはりそうだった。「磐代」=「岩代」は和歌山県みなべ町にある地名だ。電車で通ると、とても眺めの良い砂浜の海岸がずっと続くのを見ることができる。

 

この歌の意味は例えば http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/arima2.html に書いているが、有間皇子が謀反を唆された相手に裏切られ、取り調べに呼び出されたときの道中、岩代で無事に帰れることを祈った歌だ。

 

岩代という地名が万葉の時代から存在し、しかも歌に詠まれていることにも驚いたが、和歌山県から遠く離れた(2つ隣の都道府県だけど)京都府城陽のこんな遺跡でこの地名を見ることになるとは。

 

ちなみに城陽市の青谷では岩代があるみなべ町と同じく梅の栽培が盛んで、梅林がきれいだそうだ。さらに、青谷は京都府京田辺市に隣接しているが、みなべ町和歌山県田辺市の隣である。合併前の岩代村は田辺町とはかなり他の村を隔てていたから、これは完全に偶然でしかないのだが、城陽市みなべ町の接点が次々と見つかったのはちょっと不思議に思える。

天気予報のピュアリティー

昨日は2限からのスタートで、朝食後は家を出るまで時間があった。テレビを一応点けながらも、集中力を手元の本とインターネットサイマル放送のラジオ音声に向けていた。

 

宇治市コミュニティFM局の放送、番組の途中で流れてきたのは宇治川水系の河川やダムの水位情報だった。大雨が降ったりしたわけでもなく、淡々と伝えられる宇治川の水位。それを聴きながら、長く忘れていた安心感のようなものを明確に思い出した。

 

幼稚園から小学校のころ、ウェザーニュースというテレビで24時間延々と天気予報を流しているチャンネルがあり、それがとても好きだった。1時間に1回はスタジオからの生放送があったが、それ以外は穏やかなBGMが流れ、各地の天気や降水確率、観測された日照時間、風向風速、積雪の深さ、天気図などが周期的に画面に映し出されていく。あれは非常によかった。

 

気象に興味があったからあれをずっと見ていたのか、あれを見ていたから気象に興味が湧いたのかは忘れたが、天気予報が子どもとしての自分の「好きなもの」の一つだったことは明らかだ。

 

当時なぜウェザーニュースの放送が好きだったのかもよく覚えていない(というよりは、当時は4〜6歳だったし、その理由を明確に言語化していなかったのは当然で、したがって覚えているわけがないと思う)。ただ、あの放送だけではなく、ラジオの交通情報みたいな——それこそ川やダムの水位を伝える放送のような——生活に必要な情報を、過剰なく淡々と伝える放送全般に良さを感じていたのは覚えている。昨日、川の水位を聴きながら、そういう放送は汚れがなく、純粋で、テレビ/ラジオ放送のもっとも本質的なところなのだろうと思った。たぶん幼少時の自分も、そういうところに惹かれていたのだろうと推察される。そして、そのような放送のうち最もポピュラーなものが天気予報だ。

 

時は流れ、2016年9月にウェザーニュースはテレビ放送の業務を終了した。今やインターネットが完全に普及し、天気などネットで簡単に見られるという人が増え、テレビの天気予報専門チャンネルの役目は終わったということか。しかし、テレビもネットも、ひたすらゴシップを消費する近年の様相である。テレビは各局同じような内容のワイドショーに多くの時間を割き、ネットは匿名性を盾に特定の個人を吊るして燃え上がらせ、私刑に処する。また、後者はインターネット文化に疎遠な人々は遅れた文明にいるとみなし、自らの優位性を見せつけようと動く。テレビも、台風が各地で被害を出しまくっているというのに、各社自前の、ワイドショーの延長のような選挙特番を中断して緊急の放送を行ったりはしない(もちろん良識のあるテレビもネットも存在するのではあるが)。 正直に言うと、テレビやネットのそういうところとできるだけ関わりを持ちたくない。こういったメディアが主流であるなかで、24時間延々と天気予報を流しているあの局がいなくなったのは悔やまれる。あのような過剰のない、限りなくピュアな情報源たちは、もうこれからは失われていくのだろうか……

 

ただ、コミュニティFMラジオ局のように、今でもそういった放送をしてくれるメディアがあることはありがたいことだ。どうか、こういうものがこの後も生き続けてほしい。

 

今日の朝はNHKの「おはよう日本」を観て学校に行った。この番組はテレビ放送にしては、かなり自分が求めるものに近いと思う。天気予報によれば、今日の夜は京都府南部でも雪が降る可能性があるらしい。和歌山県南部ではほとんど雪は降らなかったこともあり、少しワクワクする。やはり幼少時に培われた気象への興味が今も強く残っているのかもしれない。 

すさみ町の車窓から

先週末は学祭で大学が休みなので帰郷しました。

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地元に向かう特急くろしおが、見老津駅(和歌山県西牟婁郡すさみ町:夏に行った江住駅の隣の駅)を通り過ぎるとき見えた枯木灘の夕照があまりにも良くて、写真が撮れたのでここに貼っておこうと思います。

 

くろしおが、海がよく見える区間をゆっくり走ってくれるのはサービスなのでしょうか。もしそうなら粋だと思います。

御坊市 -紀伊半島の旅(その2)-

江住駅から乗り換えを含めて各駅停車で約2時間、御坊に到着。

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予想以上の涼しさで、夏休みのなかでもこの日に旅行を実行したことは正しかったと確信した。改札で江住で取った整理券を渡してここまでの運賃を精算し、少し待つと紀州鉄道レールバスがコトコトと入って来た。

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終点の西御坊駅までたった8分間、列車は御坊の街をゆっくり進む。JR御坊駅から次の学門駅は少し長い区間だが、その次の学門紀伊御坊〜市役所前〜西御坊はとても短い。

途中で運転士さんが手を振っているなと思ったら、沿線に小さな子供がいて、手を振っていた。この鉄道は御坊の街に寄り添い、御坊に愛されているのが伝わる。

すぐに西御坊駅に着いた。

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木造の黒く塗られた駅には、味わいがあった。駅ノートもあり、上手い駅舎の絵を残した人もいた。和歌山県外の遠いところから多くの人が来ているようだ。

 

西御坊駅から寺内町を経由して、2つ前の紀伊御坊駅まで歩くプランを実行。持ち時間は紀伊御坊駅にJR御坊方面の列車が来るまでの40分。寺内街の情緒ある街並みをじっくりと見ていたら、時間切れにならないか少し心配だった。

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「御坊」の地名の由来となった本願寺日高別院の門は残念ながら閉ざされていた。プランは必ずしも順調に進まない。歴史的価値のある建物が続く寺内町を抜けたところで、地図を見間違えてしまい、迷うことに。

 

結局、ちょっと焦って走った結果、10分弱の余裕を持って紀伊御坊駅に到着できた。ここは有人駅で、駅員さんから切符を買う。

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紀州鉄道の写真コンテストに投票してほしいと言われたので、短い時間で選んで投票した。候補の写真の多さからも、紀州鉄道が慕われていることがわかる。

駅員さんは親切で温かい人だった。急いだだけに暑くて、パンフレットで扇ぎながらホームで列車を待っていると、紀州鉄道オフィシャルのうちわをプレゼントして頂けた。列車に乗り、出発するときも、わざわざ頭を下げて見送ってくれた。紀州鉄道、本当に温もりのある路線だった。JR御坊駅に戻る列車の中では帰宅途中の高校生が談笑していた。彼らの多くも高校を出れば他のところに行く必要があるのだろう。小さな1両だけの鉄道で御坊の街を繰り返し行き来したことが彼らにとってかけがえのないものになってくれたらいいと思う。自分はわずかに彼らより年上なだけだから、何も偉そうなことは言えないけれど、紀州鉄道はそんな鉄道だった。

 

JRの御坊駅に戻り、帰りの電車までは夕食を買ったり、お土産屋さんに入ったりした。

 

和歌山県中部の中核都市とはいえ、なかなか来る機会は無かった御坊。江住のように前から行こうと思っていたわけではなく、御坊行きを決めたのは1週間前だった。

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来た鉄路をまた引き返す。途中で乗り換えのために降りた紀伊田辺駅が、昔来たときよりもカラフルになっていたのも印象に残った。このカラフルな駅舎ももうすぐしたら改築で取り壊されてしまうらしい。見られてよかった。改築されるまでにもう一度見に来たい。そして、きのくに線ロングシートに揺られること数時間、念願だった旅が終わった。

すさみ町江住 -紀伊半島の旅その1-

きのくに線無人駅のホームは狭い。1面2線の無人駅、この狭さ、旅情を掻き立てて、遠くから来た人には意外と人気があるかもしれない。

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この前、昨秋から温めていた旅の計画を実行に移した。特急で通り過ぎるとき、枯木灘の美しい景色が見える江住駅に、いつか降り立ちたいと考えていた。

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枯木灘を背にした駅前のローソンは自分の知っているなかで一番風光明媚なローソンだろう。自分が初めて江住の風景に惹かれたのは、所用で和歌山市に行くときに乗っていた特急くろしおから、薄暮のなかに揺れる海面とこのローソンの青い灯りが見えたのがとても美しかったときだ。ここにはテラスがあり、海を一望できる。

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このあと道の駅すさみまで歩いて、特産のイノブタで作った豚丼を食べた。イノブタは名前の通りイノシシとブタの交配種で、ここすさみ町で誕生した種だ。紀南に生まれた自分もまだ食べたことがなかった。実際に食べてみると、野生的なイノシシのイメージから想起される味とは裏腹に、食欲をそそるような風味が適度にあり、食感もあり、しかもあっさりとしていてとてもおいしかった。

 

道の駅のレストランはガラス張りの壁から枯木灘が見える。特に、すさみ八景のひとつ、江須崎がよく見える。江住にはすさみ八景がもう一つあり、江須崎の入り口にある日本童謡の園からの眺めがとてもいいらしい。この日は真夏よりは涼しかったけれど、もっと涼しかったらそこまで行ったかもしれないなあ。今になって行きたくなってきた。

 

すさみ町は、隣の白浜町などに比べるとやや知名度で劣るかもしれない。しかし、枯木灘の雰囲気は随一のものだし、町自体かなり個性的なことをしている。具体的には、海底にポストがあったり、エビとカニだけの水族館があったりする。スルメイカを郵便で送れるらしい。すさみ町は弾けている。

 

道の駅すさみのなかにあったすさみ町のポスターにはこのようなコピーがあった。「海の幸、山の幸、時の幸」 時の幸とは、海と山に囲まれた土地で、この町の他とは違う何かを感じ、今日ここに来て良かったと思えるということだろう。今度はすさみ町の中心部にも行ってみたい。見老津のあたりも素敵だろう。

 

江住駅に戻り、地元の方の俳句が飾られているのを見たり、それを真似した駅ノートの書き込みを読んだりした。

「雨降って地固まるどころか土砂崩れ」 紀伊半島特有の大雨で電車が止まってしまったのだろうか。過去に江住を訪れた旅人の不運を気の毒に思いつつも、そのユーモアに心温まりながら、次の目的地である御坊へと向かった。電車が出るとすぐにトンネルに入るから、江住の海もローソンもすぐに見えなくなってしまう。うち心惜しく、再びきのくに線の電車に乗った。

 

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和歌山県退出2日前

向こうに持っていく書籍などを段ボールに詰めた。思ったよりも持っていく本は少なくて、小さな段ボール半分にも満たないほどだった。少ないほうが後々の片付けでは有利になる。

 

朝から何を段ボールに入れるか考えた。大学入試の赤本に手を出して、2011年の国語の第1問、長田弘「失われた時代」をもう一度読む。この文章がもともと掲載されている本はもう絶版になった。ならば、文の題材となっているレオーノフの長編小説は? 調べたら、Amazonにすら中古が見つからない完全な絶版だった。これほどの文学的価値を持つものでも、日本ではもう新たに製本されることはない。がっかりした。見るからに下品で安っぽい、たとえば他民族を貶めるような、そんな新書はたくさん出版されているのに。

 

あさって和歌山県を出る。4/3から4/7までずっとガイダンスや入学式で忙しいから辛い。初めて住む都市で暮らしていくことに馴染んでいくための余裕がもう少しあればよかったのに。もう友達の多くは行ってしまった。出発の遅い自分は和歌山県から出るための準備をする時間がたくさん与えられている。

 

和歌山県はいいぞ。便利ではなかったけど、高校卒業までの時間、無用な焦りのない生き方ができた。高校受験は一応したけれど、まあほどほど勉強してれば大丈夫だったし、都会の人みたいに厳しい「お受験」をしなくて済んだ。これはありがたかった。津波を伴う大地震がいつか起こる場所だから、突然死ぬこと、死なないとしても多くのモノを失うことを薄々意識しながら生きることを強いられた。特に東日本大震災が起こってからは。その意識のなかに、生活を送ることの尊さがたびたび現れる。

 

春から1人暮らしが始まる。自分の生活を、これまで以上に大切に扱う必要がある。むしろ大学の授業や人間関係よりも楽しみなくらいだ。料理ができる。スーパーが近くにいくつかあるから、料理したくない日はご飯だけ炊けば十分。まずは疲れない程度に、料理と洗濯と掃除をルーティーン化させよう。

 

いろいろと運び出してしまうので、明日は退屈だと思う。和歌山県で住む最後の日なので、忙しいよりは退屈なほうがいい。